あぶら蝉の死

 毎朝ウオーキングをしているが、3キロメートルほど歩いたところに古い神社がある。いつも10円のお賽銭をしてお参りする。いくらくらいお賽銭をしたらご利益があるのか神様は教えてくれないので、とりあえず一日十円を分割払いしている。私が生きている間には、たぶんご利益があるまでには到達しないだろう。手を清めてガランガランと鈴を鳴らして拝礼をすると、賽銭箱のそばの床の上に「アブラゼミ」の死骸がころんでいた。私は歌手の長山洋子が好きで、ヒット曲の「蜩」をカラオケで時々歌うが、その歌詞の中で、「焦がれ泣きする蝉のようです・・・・」という一節を思い出した。このあぶら蝉は、暗い地中から這い出して、全身に明るい太陽の光を浴びて、いったい何日生きれたのだろう?わずか何週間の間に焦がれる恋人に会えたのだろうか。子孫を残していったのだろうか?死んだ蝉は、蟻の群れに隅々まで食べられて、やがて残った羽などは風に飛ばされて、落ち葉の中に混じって土に還る。あぶら蝉の生きた証は何一つも残らない。蝉に比べると、人間は下手をすると100年間もの長い時間を生きられる。あぶら蝉のように必死で生きれば、60歳を過ぎても時間はたっぷり残されている。死んだあぶら蝉は、そんなことを思わせてくれた。